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破壊こそ創造

バイオゴリラの猿言葉に影響受け過ぎなブログタイトル うつや社交不安障害持ちの野球好きが徒然なるままに色々ほざきます

引っ越しの思い出

県外に住む弟の就職に合わせての引っ越しをすることになり、実家から両親が手伝いに行っていたのも今日で終わり。
引っ越しかあ。蕎麦くらいプレゼントしようかな。

自分が初めて引っ越しを経験したのは6歳の時。
家族で借家に住んでいたのだが、父方の祖母の家の隣の土地を分けてもらいそこに家を立てて移り住んだ。今も住んでいる実家である。
当時幼稚園児で何もわかってなく、ただ新しい家が嬉しかったし、
引っ越してしばらく毎日がお祭りみたいだった。
家が建っていく過程も見てきていたから尚更である。
問題は新しい幼稚園でのことなのだが、地元の子供達が妙に結束していて、よそ者扱いをされて、微妙にいじめられていた気がする。
当時は全くわからなかったが、この町の異常性に幼い頃から晒されていた。

そんな地元の子供達とも仲良くなってきて小学校に通っていた頃、8歳の時に二度目の引っ越しを味わった。
父親の仕事の都合で広島への転勤である。この頃は引っ越しに嫌なイメージはなかったので、またも僕達兄弟はお祭り騒ぎだった。
都会の子どもたちはすぐに仲良くなってくれて、母もこの頃が一番充実していたと言ってる。

そして三度目の引っ越し。小学6年12歳という多感な齢でのことである。
父の転勤で今度は東京に行くことになった。といっても諸々の事情で父だけ単身赴任、母と兄弟たちは実家に戻ることになった。
とても仲の良い友達が大勢いたから、引っ越しが決まってしばらくは夜な夜な布団の中で泣いていた。でも、かつて通っていた小学校に戻るということは、かつて遊んでいた友達と再会できるかもという期待もあった。
戻って最初に嬉しかったのは皆自分のことを覚えていてくれたこと。
それを帳消しにするほど失望したのはよそ者扱いされたことだった。
さらに小学6年で子どもたちのコミュニティは固まっていて、自分の入っていく余地はなかったし、入っていくつもりもなかったので、中学を卒業するまでは物凄いぼっちだった。
母も共働きじゃないからと、共働きのお母様方にPTAやら部活動やらの面倒事を押し付けられいじめられていたらしい。
母方の祖母は引っ越しでいっぺんに友達を失ったことを哀れんでくれたが、
隣の父方の祖母は「帰ってきて嬉しい」しか言ってくれなかった。
この頃の体験が後に心療内科に通うことになる遠因にもなっている(と医者に言われた)
因みに詳細は省くが、父は子供の頃からの祖母の言葉「長男が親の面倒を見ないかん」という呪いの言葉の犠牲になった。
母も働かなくてはいけなくなった。
その途端共働きのお母様方が仲良くしいようと擦り寄ってきたという。
恥知らず共め。

なんやかんや弟達が地元を出ていく中、地元で進学していった。
地元にいることで節約でき弟達の進学の金銭面で助かったと言われて照れる。
4度目の引っ越しは埼玉。東京で内定を取り、一人暮らしもする、もう好き勝手していい。これまでになく希望に満ち溢れた引っ越しだった。
「長男を他の土地にやるのかー」と父方の祖母は相変わらず。
引っ越しを手伝ってくれた母の涙が印象的だった。
その後の東京での顛末は省く。

凄まじいレベルでうつを悪化させていたが、働く意思はあったので、松山に戻ることになった。5度目の引っ越し。ただし、母の助言で地元には戻らないほうがいい(地元の町はおかしいから)とのことで一人暮らしはしばらく継続されることとなる。
なんとか短期雇用の内定を取るものの、そこで本格的にぶっ壊れてしまい、働くことに関してはドクターストップ(のようなもの、本当は松山に帰ってきた段階で働けない体だったのと思う)無理をしすぎた。

こうしてまた引っ越し、これで6度目。実家に帰ってきたのである。
この薄汚い町に。何もかもが旧態依然なこの町に。医者を虐めて追い出した例の町にも似た町に。大学まで進学した人はもれなく出て行くこの町に。高卒の弟も定住を選ばなかったこの町に。一番下の弟が地元の人間に会いたくないといって帰らなかったこの町に。
祖母はまた言った「よくもどってきてくれた」
また働けるようになったら必ず出て行ってやる。

俺にとっての故郷とはどこなのだろうか。
松山市だ。でもこの町ではない。